いまだから話せるひとつの創刊号制作秘話

 あと一週間後にフイナム・アンプラグド2号目が発売される。創刊号から半年、あっという間だった。

 今回は前号の入稿時のバタバタを少しでも軽減し、さらなるクオリティを目指すためにずいぶん前から準備していたつもりだったが、蓋を開けてみれば豈図らんや、いつも通りであった。つまりドタバタだったということだ。

 まあ、いろいろあったけれど無事校了も終わったので、関わった人たちみんなに感謝の意をここに表したい。

  実は創刊号、発売間際に準備していたページを諸事情あって急遽ボツにした。「ショップ温故知新」というタイトルで長くやっているお店を取材するというものだった。

 その第1号として、ぼくもこの本のプロデューサーでもあるKくんも馴染みに深いメイド・イン・ワールドを取り上げることにした。

 ぼく自身が取材し、写真も撮り、デザインも上がり入稿し、色校が出たところに入ってきたのが、メイド・イン・ワールド突然の閉店というニュースだった。関係各所に連絡し、事実関係を確認したところでこのページをボツにすることを即断した。苦渋の選択という言葉が思い浮かぶかもしれないが、こちらはただ記事を落としただけ。こちらの痛みなんてたかが知れてる。そんなことよりメイド・イン・ワールドのスタッフ、そしてオーナーであるKくんのことが気になった。大丈夫なんだろうか。

 あれから半年経った。伝え聞く話では旧スタッフたちは、それぞれ違う道に進んでいるようだし、Kくんもどこかでなんとかやっているらしい。もういろんなものが整理されてやっと落ち着いたころだと思う。

 団塊ジュニアとされる世代とその前後にとってこの店は特別な思い入れがあると思う。いわゆる裏原というムーブメントを礎を築いたお店のひとつ。

 ひとつの小さな歴史が終わった。ファッションの大きな流れから見ると小さなことかもしれないけれど、こんなお店があったということを知っていてもらいたい、そしてそれを伝えていくのも小さいながらもこうしたメディアの務めだと思うので、その時の原稿をそのままここに貼ることにする。

 ちなみに2号目はこの企画をパスした。その方がいいような気がしたからだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    日本中がバブルの好景気に浮き足立ってる昭和63年。あと2ヶ月足らずで平成元年となる時代の変わり目の1988年11月10日にメイド・イン・ワールドは渋谷ファイヤー通りの建て替えられたばかりの丸栄ビルにオープンした。文化屋雑貨店などで知られたこのビルも好景気の恩恵を受け、地上7階建てに生まれ変わったばかり。

 オーナーであるKはこの時、18歳。服好きで進学はファッション関係の専門学校を考えていて入学金もすでに払っていたのだが、父親の「ファッションやるんだったら、学校よりも実践だ」という助言で翻意。親から借りた元手で9月に竣工するその新築ビルと契約した。

 物件が決まったら、次は商品だ。ツテも何もないので、スタイリストの小沢宏と二人で彼の友人がいるロンドンへ。当時はFDG(ポパイが提唱したスタイル)からトラッドへ向かうところ。渋カジのブーム前夜である。

 ロンドンにおよそ一ヶ月くらい滞在し、ハケットやターンブル&アッサー、ヒルディッチ&キーなどのブランドのアイテムを店買いした。

 オープン後も店買いは続く。ちょうどアメリカではアウトレットがブームになり始めた頃。メイドよりすこし前にオープンしたラブラドール・リトリーバーで好調だったラルフ・ローレンのアイテムを店頭やアウトレットで手に入れて薄い利幅で販売していた。

 アメリカには2~3ヶ月に1回、イギリスには半年に1回。開店2年くらいはこれでしのいだ。

 そして90年頃からパリのセムという展示会に定期的に行くようになる。店買いだけでは限界がある。

 そして女神は大きくメイドに微笑む。ポパイでスタイリストの祐真朋樹がラルフ・ローレンのビッグポロを1ページ割いて紹介してくれたのだ。そこからは何かタガが外れたようにモノが動いていく。100枚仕入れたポロシャツは1日であっという間に売り切れる。これでラルフ=メイドのイメージができ、お客さんが多く来るようになった。

 さらにこの後ビッグチノ、ビッグシャツのブレークが追いかけてくる。RRLも時期を同じくしてスタート。日本では手に入らなかったこれらの商品もよく売れた。

 わずか5坪の店でこれらの商品とセムからのヨーロッパもので満パンになった。 

 93年12月10日、いま裏原宿と呼ばれているエリアへ2軒目となる新店を開店。店名はメイド・イン・ザ・ワールド。“ザ”は思いつきで特に意味はないらしい。

 当時はこの界隈に店はほとんどなく、古着屋が数件あった程度。ノーウェアがすこし前にできたくらい。駐車場だったスペースをお店に改造する条件で契約。当時でも格安で物件を借りられた。

 その後、この界隈にビンテージキング、ネイバーフッドなどができ、さらに店が増え裏原宿の時代へと繋がる。

 新店はヨーロッパもの中心。渋谷はアメリカもの。ラルフ、ナイキ、グッドイナフなどと棲み分けた。

 この時期、国内ブランドが多く世に出てきた時期で、まだ名もなく大手セレクトで扱ってくれないブランドがメイドに集まってきた。

 ジェネラルリサーチ、オーバー・ザ・ストライプ、ソフ、GDCなど。その後、テンダーロイン、コアファイターなどもラインアップに加わった。渋谷店ではシュプリームなども扱っていた。

 90年半ばには京都藤井大丸へ出店。その後、名古屋と大阪にも直営店を広げる。京都は開店5年後に3フロアの路面店へ。

 ミレニアムの幕開けは絶好調だった。やることなすことすべてが当たる。その頃にはオリジナルブランドKNOTも好調で、インポート、国内仕入れ、オリジナルすべてがバランス良く売れた。

 しかしこの後大きな曲がり角が訪れる。ドメスティックブランドが徐々に力をつけ、自ずから直営店を続々開店させる。客は新味があり、品揃えもいい方に流れる。

 さらに原宿店の物件のオーナーが変わり、賃料をそれまでの2倍近く要求された。それはかなわない。2004年、店舗をとんちゃん通り中ばの地下に移転する。

 東京が厳しくなると同時に地方都市の勢いも陰る。時を同じくしてインポートブランドはグランメゾン系が人気を博し、それ以外のブランドは勢いがなくなった。2005年頃セム、ピッティに行ったのを最後にその後ヨーロッパをやめる。地方店も徐々に閉めた。

 原点に戻ろう。

 2005年、アメリカにまた行きはじめる。それからおよそ毎月、Kかスタッフの小林のどちらかがアメリカに飛んでいる。いまはデッドストックの靴を中心にもの揃えもどんどんコアな方向へ。去年からインディアンジュエリーを強化した。

 いまの店舗へ移転したのは昨年5月。

 現在の取り扱いブランドはクーティ、サニーシーサイダー、...リサーチ、ソフネット、そしてデッドストックなどの買い付けもの。

 数多くあった店舗はこの一軒だけになったが、原点のスタイルに戻って10年。がむしゃらに勢いでお店をまわしてきた18歳の頃からの情熱はいささかも失っていない。

 この店がなかったら裏原の隆盛はなかった。ドメスティックブランドをはじめとするファッション界の景色はずいぶん違ったものになっていただろう。

(敬称略)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 メイド・イン・ワールドはこの取材の後、2015年2月末日をもって閉店した。

 

文:蔡俊行